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昭和二十年八月十五日、忘れようとして忘れることのできない敗戦の日である。永い苦しかった戦いは終わった。しかも無条件降伏という惨めな運命の日である。焦土と化した町、家を焼かれ飢えに泣くいたいけな子供達、生きる気力さへ失ってよろめき歩き人々、それに引きかえ堂々と胸を張って闊歩する占領軍、町の所々に翻る星条旗、この時程敗戦という現実のみじめさ、きびしさを感じたことはなかった。『いにしへの海幸山幸しるしたる歴史の書も今はかなしき』『焼跡の巷はたのむ色もなし、春の花早く咲けよと思ふ』この時、私は学校設立を思い立ったのだった。一度や二度の敗戦が何だ、戦いは時に勝ち、時に敗れることは、永い日本の歴史の中に、いや世界の戦争史の中に常に繰り返されたことではないか。外で失ったものを内に取り戻す、甦へる力、生き抜く活力、若い人々に昂揚されたる精神を涵養することだ、銃と剣で敗れたものをペンと筆を持って勝ち取ることだ。教育の力で文化国家建設以外に日本再建はあり得ないと固く心に誓って学校設立に着手したのである。 |
九州文化学園 五十年の歩みと未来 p3より |
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吾人は今、祖国百年の彼方を凝視する。道義地に墜ちたる今、自由主義要請の風吹かんとする今、このまま推移せんか、祖国の路は衰亡への路に外ならない。吾人は今、ただ一本の道を信頼する。建設への道である。反省を乗り越えてゆく道である。次代継承者の熱情を湧き越し建設への意欲を昂揚する道である。吾人は今、次代継承の女性を対象に考える。公民としての教養たるや、女性は零に等しい、与へられんとする政治的活動の分野は女性を如何に処理せんと欲するか。吾人は、この混迷に曙光をもらたし、叡知に輝く女性の出現を希求して、新日本建設に遺憾なからしめんと欲する。吾人は今、闇夜に北極星を仰ぐが如く炳乎として輝く不磨の大典、教育に関する勅語を仰ぐ、吾人は更に維新の黎明に際して賜はりたる五ヶ条の御誓文を思ふ旧来の陋習を打破し、天地の公道を闊歩すべく昂揚されたる精神こそ吾人が今、世に求めて止まぬ精神である。吾人は今、昂揚されたる精神の涵養を以て本学院第一の任務と宣言する。 |
九州文化学園 五十年の歩みと未来 p6より |
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私(安部芳雄 初代理事長)は、学院の象徴となる図案を絵の岩永文六先生に依頼した。当時の文六先生の手記をそのまましたためよう。
『マークを依頼された時、不思議に私の頭の中に蝶が乱れ飛んだ、白い孤蝶であった。……私の頭の中にギリシャ神話の中のプシケの話が印象深く思い出されるのであった。――中略――エロスとプシケの物語は、通例一種の寓意譚として解釈された。プシケはギリシャ語で「蝶」の意味を持つと同時に「心」という意味を持っている。蝶はのろのろと地を匍ひまわる毛虫の生涯を終えると、一度身を横たへ墓の底から目覚めるばかりの翼をつけて飛び出してくる。そして、きらびやかな日光の中を飛び、春の野を飾る。おそらく人間の霊の不滅の象徴として蝶の生涯ほど適切なまた美しい姿はないであろう。この意味において少女プシケは、あらゆる艱難と不幸の洗礼を受け愛の力によって、はじめて真の喜びと、幸福とを享受することのできる人間の心の象徴であらねばならない。美しい汚れのない純白の蝶が、青く澄みきった大空を自由に奔放に舞う姿、それを私は図案化してみたのである。
私自身いま毛虫の生活を抜け出したような気がしているのだから、まして若き世代の女性は、もう我を忘れて舞う気分になっていることと思ふ。この図案にかこつけた私のロマンチックな夢は思いがけなく早く現実となるではないかと思ふ。このマークをつける人は、少なくともそうなって欲しいと思ふ。汚れのない美しさ――それは、とりも直さず永遠の美しさである。ちなみに真紅で入れた「L」はLiterature(文学)であり、Liberty(自由)であり、Life(生活)であり、Love(愛)である。文学、自由、生活、愛――これらを羅列ではなく、文章としてひとつ考えてごらんなさい。』以上の趣旨を源として、出来上がったのが、現在の学園の象徴としての校章である。」と記してあります。短大、高校、歯科衛生士学院、調理師専修学校、幼稚園の全てが、蝶を形どったバッチになっています。 |
九州文化学園 五十年の歩みと未来 p10〜11より |
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私立学校には、創立者の建学の精神が存在し、その基盤となっています。本学は、昭和二十年「九州文化学院」として発足し、創立者、安部芳雄氏の短期大学教育理想には、「本学は、教育基本法並びに学校教育法に基づき、一般教養と密接な関係において実際的にして有能な専門の学芸を教授研究し、地域社会の要請に応ずる良識と技能をそなえた職業婦人及び家庭人としての婦徳の高い女性の育成を目的とする(学則・第一章総則より)」とあり、短期大学が設置されても、この教育理想は、そのまま受け継がれて今日に至っています。この教育理想の具現化が「茶道」という形態をとり、昭和五十一年より「日本文化」という名称で実施していましたが、昭和五十八年より文部省の指導もあり「茶道文化」と名称を変更しました。具体的茶道の実習を通しての文化論でありますから、茶道という具体的名称の方がより理解しやすいという文部省の指示でありました。
茶道文化は、いわば一番きめ細やかに指導されなければいけない教科であるだけに、かつて本学の少人数の中より生まれたものであります。それが八○○名の学生のもとでなお持続されているのは、先生方の茶道研修、そして学生七、八名に一人の先生方がつく細やかな指導形態をとってるからです。
「茶道文化」の教育目標として次のことを掲げています。「人間社会の原則である集団生活の基本を学び、自分自身を静かに見つめ、自己の修業、自己の成長を学ぶこと。また清らかな動作によって、清らかな精神を作り、日本古来の伝統芸術を学ぶこと。茶の点前を通して、日本文化、日本の歴史・習慣、日本の礼法を学ぶこと。さらに、茶道の流派の中でも郷土平戸の鎮信流を学ぶことで、地方の文化を考えること。」
平戸藩主第二十九世の祖、天祥公・鎮信より生まれた「鎮信流」を学ぶことにより、地方文化の伝承にもなっています。二年間履修することにより、初歩伝の免許を家元よりもらえる制度が確立しています。申請の条件として、規定の時間数を満たしていること、三回の実技試験と一回の筆記試験の結果、合格点に達していることが条件となっています。昭和五十一年度から平成六年度までの初歩伝取得者数を見てみると、年々免許取得希望者が増加していることが伺えます。
現代の日本社会の中で日本文化の象徴ともいえる茶道も非日常的マイノリティーの文化になってしまっています。畳、着物、茶花、掛け軸等、年々薄れていく文化の中だからこそ、二年間こうした日本の文化に触れたことで若き学生は日本とは何か、そして人間の触れ合いの源とは何かを学んでくれたと確信をしています。
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九州文化学園 五十年の歩みと未来 p76〜78より |
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