創設者 安部芳雄物語

学校設立の舞台裏をご存じでしょうか。
長崎短期大学の誕生には、父なる教育者の血のにじむような努力がありました。その人の名は、安部芳雄。
学校づくりに命をかけた青年の、波瀾万丈の人生をお見せしましょう。

少女等の学ばむ声に應えつつ一生をここに我のすごさん

勤勉で清貧な女学生に感動
長崎短期大学は、昭和20年(1945年)創立の「九州文化学院」の歴史と伝統を受け継ぎ、昭和41年(1966年)に設立されました。初代学長の安部芳雄は、当時53歳。敗戦による貧困と動乱のなか、学校づくりのために奔走した日から、すでに20年の歳月が流れていました。
昭和20年8月15日、32歳の安部芳雄は大きな志を抱きました。戦前、佐世保工業高等学校に勤める教師だった彼は、終戦直後の焦土に立ち、確信したのです。「日本を再建するのは若者たちが、その力を発揮するのは教育しかない」と。そして、これからの人生を教育事業に捧げる決意を固めたのです。
当時は、モノのない時代でした。紙もなく、鉛筆もない。古紙を裏返したノートに、筆の墨汁で字を書いていました。工員宿舎跡の校舎は、窓ガラスの大部分が割れたまま。雨風が入りこみ、冬は全身が凍るような寒さです。昼食を持参する生徒などほとんどいません。飢えや寒さに耐え続ける日々。それでも創立当初の学生たちは、みな向学心にあふれていました。なにしろ彼女たちは、戦時中に学徒動員にかりだされて女学校生活に専念することができなかったのです。それだけに誰もが知識に飢えていました。おしゃれをしたい年頃の少女が着古したモンペ1着で我慢し、真剣なまなざしで真理を探究せんと勉学にいそしむ。そんな真摯な姿に、芳雄は胸を熱くしました。
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戦後まもない佐世保の本通り
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仮校舎・天神山山腹にあった元海軍工廠工員宿舎
入学式はここで行われた。

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様々な想い出を残した矢岳練兵場
米軍に出向き司令官に直訴
学校設立から2年後の昭和22年、各種学校から専門学校に昇格しました。やがてその本拠を、街の中心地へ移すことに。当時お金もなく、社会的地位もなかった芳雄が、どうして佐世保のランドマークともいえる矢岳練兵場を学校敷地として獲得できたのでしょうか。その背景には、ひとつのドラマがありました。
幾多の検分と断念を重ね、やっとここしかないと思える土地に出合えたものの、周囲からは歯牙にもかけられない状態。それでも芳雄は諦めることなく、市や県の関係者への説得を続けました。ついには捨て身の覚悟で占領軍を訪問したのです。入り口で名刺を渡し、二世通訳の案内のもとに司令官と対面。まだ敗戦の爪痕が残る時代、凱旋将軍の姿は恐怖すら覚えるほどの威厳がありました。芳雄は必死で校舎の現状を訴え、涙ながらに嘆願。それが結果的に司令官の心を動かし、未返還だった練兵場を新校地として使う許可を取りつけたのです。
その後、占領軍の指令によって教育制度は大きく変化することに。新しく 導入された民主主義教育は、日本の教育現場を震撼させました。そんな中でも芳雄は、教師と保護者と生徒が一丸となった三位一体の体制で対処していったのです。こうした話し合いの伝統はその後の教養教育にも影響を与え、和敬静寂の精神とともに今日の長崎短期大学に息づいています。

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体育祭名物の腕立て100回
昭和23年に附属中学、昭和26年に高等学校の設立を経て、ついに昭和41年、彼の15年間の宿願であった「九州文化学園短期大学(のちの長崎短期大学)」が誕生しました。学園の中核ともいえるこの学校は、芳雄の20年間の集大成です。入学式当日、入学生を迎えて壇上に立った彼の目に、熱いものがこみあげました。20年前の12月15日、吹雪の中での初めての入学式。清貧に甘んじ、意欲に燃えるモンペ姿の少女たち…。毎年12月15日、長崎短期大学では設立記念日式典が行われます。時代がどのように変わろうとも本学設立の原点は変わらない。式典には、当時の思いを後世へ伝える使命があるのです。
芳雄はその後も積極的に現場にかかわり続けます。60歳を過ぎても、彼の健康と頑張りは衰えることがありません。体育祭では毎年、腕立て伏せを100回も披露。生徒全員が1から100までのカウントすることが、いつしか恒例行事となりました。ところが今までの無理がたたったのでしょうか、昭和53年1月31日、愛する学園の一角で芳雄は64歳の生涯を終えたのです。
昭和60年、長崎短期大学は椎木町に校舎を移転しました。芳雄が見ることのなかった新しいキャンパス。東に佐世保市のシンボル弓張岳、北には風光明媚な愛宕山を望みます。美しい自然の中で学生たちは武家茶道・鎮信流の「知足(=足るを知る)」を学ぶのです。物質的な豊かさより、心の豊かさを大切に思う心。そう、例えるなら、身体は古いモンペに包まれていても、心は新しい学問で満たされていた女学生たちのように。「少女の学ばむ声に應えつつ、一生をここに我のすごさん」。終戦直後、焼け野原で灯した芳雄の炎は、今も絶えることなく長崎短期大学を照らし続けています。
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第一回入学生クラス写真
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校舎の前にて

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